昭和45年8月27日 夕 4分
ここではいつも、馬鹿と阿呆で道を開けという、ここの教会の筋金の一部になっている身教えです。
馬鹿と阿呆で道を開けということはもう、そこが抜けたほどに、豊かに大きくなれとういことですから、そこが抜けたほどの限りないおかげが約束されているわけです。それで様々にそのことは説かれていったし、またはお互いは行じて参りましたが。
今日はあの、午後の奉仕の時だったでしょうか、久保山やすこが参って参りましてから、幼稚園の元の先生、あの先生からやすこさんに親先生に頼んで欲しいというて、電話がかかって来たというのは、それは孫さんに当たります、『(?)』病院の『(?)』と言いますね、いつも参って見える『 (?) 』
あんまりに合楽、合楽というて、熱心にいたしますので、言うならばまだ来年は大学という受験をしなければならない、それですから、親ごさん達心配されて、まぁおばあちゃんに頼んで行った。信心も消して、何にを言うたとは言わんけれど、どうか一つ勉強の方にもっと身を入れるようにということがですね、まぁしているだろうけれども、合楽、合楽というているから、それだけは疎かになっていると思われるのですよね。
それで本当にそれもそうだなぁと私はあの思わせてもろうて、四時の御祈念の時に、お届けをして、そのことを祈らせてもらいましたらね、その御心眼にかぼちゃを頂くのですね、それで改めて言うなら、馬鹿と阿呆で道を開けということの的な、面から見た馬鹿と阿呆というのはこういうことだ。いや、こういうところを通らなければ、本当の馬鹿と阿呆ということの意味は無いのだということを分からせて頂いておりますけれども。
まぁ言うならば、あの人はちょっと信心にぼうけてござるとじゃなかろうかと。言われるぐらいなところを通らなければ、馬鹿と阿呆との信心という基礎的なものは生まれないということ。
あの人はぼうけてござらんじゃろうか、と言われるぐらいな信心をして初めて、馬鹿と阿呆の信心というそこ抜けたほどしの信心というのは、成就するんだということを頂きましても、本当に、人間の知恵、浅い知恵やら考えおるときには、こういうことではないなぁと、改めて思わせて頂いた。
ですから、本当に馬鹿と阿呆で道を開かせてもらうほどしのおかげ。いうならば、限りが無い。そこの無いほどしのおかげを頂くための、その修行の根本になるものは、いけじ、人が何と言うてもぐらいな、儲けた信心というかね皆さん。
言うなら、一心に信心をさせてもらう、信心に夢中になることはいよいよ馬鹿と阿呆になれる元が出来ているのであると私は頂かせてもらわなければならんと思うのですね。
どうぞ
※『(?)』聞き取れない言葉が、3個あります。
末永あい